ラボの運営

 1月6日、ミネソタ曇り

 今年も大量の実験をする日々が始まった。

 朝7時過ぎにラボに集合し仕事を始める。外は真っ暗。風は冷たく、道路は凍結。午前中は、若い連中しかいなかったので仕事が順調だった。中堅以上のスタッフは時間を守らず、ミスを繰り返す。しかし、若いスタッフは時間をちゃんと守り、ミスが少ない。一緒に仕事をしていて非常に気持ちが良い。
 そして、バイトにきてくれている学生の表情が非常に生き生きとしているのが私の気持ちを和ませてくれる。好奇心に溢れ、なんでも興味を持ち真剣に働いてくれる。彼は飲み込みも早く仕事を教えていてもストレスを全く感じない。これから社会人になっても煤けることなく、その純粋な好奇心を持ち続けてくれたらと思う。

 相変わらず、休憩する時間がほとんどない。妻が作ってくれた弁当を短時間で摂取し仕事を続ける。


 そして仕事が終わり、同僚たちとラボの運営について話をしていた。

 うちの研究室は大ボスが得た超高額のグラントと寄付金にて運営されている。大ボスの下で数人のPIたちが中ボスとして働いている。私の中ボスはグラントを持っておらず、雇われPIである。我々の給料は大ボスの資金でまかなわれている。

 今まで自分の給料がどこから出てきているのかなんて考えたことも無かった。しかし、アメリカでは誰に実質的に雇われているかが重要なので今日調べてみた。予想通りの状況であった。結局のところ、中ボスは大ボスの顔色をみながら暮らしている。その事実を改めて考えてみると今までの彼の行動もなんとなく納得がいく。”どんな手を使っても自分が仕事をやっているということを示さなければいけない” のだと思う。さもなくば”くび”。そして、もしも別の研究施設に移ることになった場合、どれだけ重要な論文を発表しているかが彼にとって非常に重要なのだ。
 グラントを得て生活しているPIは、なんとかして新しいグラントを手に入れるか、なんとかして今のグラントを更新するかに苦心しているが、うちの中ボスはなんとかして大ボスに高く評価してもらいたいのだろう。PIってのはやりがいがあるが、あまり落ち着けるような立場ではない。


 話は少しもどるが、昨夜、中ボスから送られてきたメールを読んで、私は憤怒した。そしてすぐに返信を打ち返した。
 彼からのメールの内容は、”事務方の某氏がこの職場での100%の貢献を貴方に求めている。貴方は100%の貢献をする義務がある” であった。
 ”何を言っているんだ!!、私は130%の貢献をしているではないか!!、普段はあなた方が立案した膨大な実験をこなし、夜間や休日も脳死ドナーが出たら緊急召集を受け、無料奉仕をしているではないか!!!” と返信した。
 そして今朝、中ボスに出会った瞬間、ひさびさにどかんと噴火した。自分でも不思議なのだが、激怒したときはなぜか非常に危険な英語がすらすらと口から出て行く。中ボスはかなり怯えていた。
 ”あのメールを深刻に受け取らないで欲しい、お願いだから、そう怒らないで欲しい。今日仕事が終わったら話し合おう” と言い残し去って行った。そして一緒に仲良く仕事をこなした。

 仕事が終わった。中ボスと会議室で二人きりで話をした。いつもは彼のオフィスで話をするのだが、彼も人には聞かれたくないことを話すつもりらしい。
 さて、まずはおとなしく彼の言い分を聞こう。
 ”事務方の某氏は貴方があまりミーティングに顔を見せないことに不満を持っている。彼らは貴方が外科医であることに期待し何かいいアイデアなり提案なり、改善点の指摘なりをして欲しいといっている”
 (怒、怒、怒)”何を言っているんだ、私の知らないところでそちらの都合でミーティングを開いておいて。いつそんなミーティングをしたんだ!!。なに!その日は私は臨床の仕事をしていた日じゃないか!!ふざけるのもいい加減にしてくれ。そいつらは私が実験と臨床の仕事を掛け持ちしていることを把握していないのか!!”
 ”そう、実はそこが問題なんだよ。うちの研究室はおかしいんだ。普通じゃない。今日の仕事だって二日前に某PIから突然持ちかけられた仕事なんだ。私もその詳細は知らない。あまりにもこなさなけらばならないことが多すぎて私の手には負えない状況なんだ”
 ”だったら、もっと前もってみなで情報を共有して、みなで検討するべきだろう!!”
 ”そう、そうするべきだけれど、このやり方がここ流なんだ。私もここで働き始めて驚いたんだ。でもそうなんだから仕方がないんだよ”
 ”何がいいたいのだよ。私にどうしろといいたいんだ。なんだって昨夜あのくだらないメールを送ってきたんだ!!”
 ”あのメールに関しては私はただのメッセンジャーだよ。某氏の話を伝えるのも私の仕事なんだ。約束する、私は君を100%信頼し、100%サポートする!!”
 ”だから、私にどうしろといいたいのだよ!!”
 ”もっと一緒に今抱えている問題に取り組んで欲しい。ミーティングに参加して欲しいんだ”
 ”だから言っただろう!私の知らないところでそっちが勝手にやっているミーティング、しかもその時、私は別の仕事をしているじゃないか!それに貴方も今日の仕事の詳細を知らないように、私も詳細を聞かされること無く働いていることが多いんだぞ!”
 ”そうだな。それではこれからどうしたらいいと思う?”
 ”いつミーティングをするか全て私に知らせろ、そして実験計画を全て私に見せろ”
 ”分かった、ミーティングに関してはこれから必ず連絡する。でも、実験計画は私も把握できていないことが多いのでそちらは無理かもしれない”
 ” ・・・・・・・、なんだい?、それでもPIかい?”
 ”うーん、そうなんだ。last minuteが多すぎて私も困っているんだよ”
 ”はぁー、そうかい”

 なんだか実りのある会話のような、結局何も解決していないようなやりとりであった。雇われPIの愚痴を聞いたような気分だった。しかし、私も言いたいことが少し言えたのでまずまず価値のある会話だったのだろう。これ以外にも、はるかに危険な内容を彼は話していた。それにしても、事務方のやつらときたら・・・・・・何も把握していないのか?(これは短絡的な考え方かもしれない。もしかしたら中ボスお得意の”情報操作”の可能性もある。彼は良く”大ボスがあなたにこの仕事をして欲しいと言っている”と言うが、半分ぐらい嘘だったりするから)


 巨額の資金がある > 人員、機材、試薬ともに充実している > 研究費のことを気にせずに満足するまで研究が出来る。と思ってこの職場へ転勤してきたが、この発想は全くの勘違いであった。

 巨額の資金がある > 人々の欲望が渦巻く > 秩序を失って実験を行う > どこかにシワ寄せが来る。これが実際のように思う。
 まるでアメリカ社会の縮図のようなところだ。

 だた、ここに書いたことは事実であるが、その事実の解釈は頭に血が昇ったいち研究者によるものであることをお断りしておく。

 巨象にまたがり、今日もゆく。これが虚像でないと信じて。

 我々研究者を突き動かすもの、それは純粋な好奇心であると信じ。

 まあ、日本にいては出来ないことが毎日毎日大量にできているので、非常に有意義な仕事ではある。それだけで十分満足していてもいいかもしれない。


 余談なんだけれど、同室の同僚全員に部屋の窓の内側が凍結して夜間窓が開かなくなるか聞いてみたら、全員 No!と答えた・・・・・・。全員に聞いていたら、ある同僚にこう言われた ”でも、なぜ夜中窓を開ける必要があるのですか? 寒いのに”。 だってさ、開かないってやだろ。開かない扉は開けてみたくなるだろ。

 帰り道、駐車場から暗闇の中へと車を出すと、いつもの凍結路がピカピカに磨かれてさらに滑りやすくなっていた。わずかにアクセルを踏んでも容易にホイルスピンし、ブレーキを軽く踏んでもタイアがロックして横に滑っていく。自分の進みたい方向に進めない。まるでミネソタの自然に笑われているようだった。”自然ってこんなもんだよ。あなたも自然の一部だろ。もっと、肩の力を抜いて自然体でいれば良いんだよ”