討論を続ける日々
昨日の朝は、車のガラスが凍結していたが今日は凍結していなかった。
そう、少し温かい。
さて、実験は続く。
大動物の実験を行うときはその実験に番号をふって管理しているのだが、今日なんと900となった・・・・・・。
私が去年の4月にこの職場に来たときは740番台だった。当時は、まさに混沌とした時期だった。たくさんの日本人研究者たちが良好な成績をたたき出していた黄金時代から時がたち、まさに、暗黒時代。当時の実験データを見返してみたのだが・・・・・、ひでーなこりゃ・・・・。
そして、試行錯誤を続け、最近はかなり結果が安定してきて、スタッフ一同、楽観的になっている。
しかし、今日、また、ある問題が起きた。
ある実験工程に関する同僚の判断が私の判断と全く正反対だったのだ。
その場で強く反論することは避ける。実験の途中に討論を始めてしまうと実験すべてが無駄になるからだ。
そして、実験が終わった夕方、同僚たちを集めその工程に関する討論を始める。
研究というのは、経験に基づいて判断するべきではないことが多い。蓄積したデータを示し、自分の仮説を裏付けるに足るだけの証拠を示しつつ同僚たちを納得させるのだ。
私たちが”経験”と言っているのは実は非常に主観的なもので、統計学などで分析してみたら全くの間違いである可能性が予想以上に高い。
ただ、私も自分の仮説が絶対に正しいとは思っていない。今のところ得られたデータからは確からしいと言う事しか出来ず、もしかしたら間違っている可能性だってあるわけだ。
そんなときは、こう言う。
This is still controversial.
まだ議論の余地があるとか、賛否両論がある、って意味なんだけれど。
私はこのcontroversialって単語がなんとなく好き。
我々研究者はこのようなcontroversialなことを相手に日々実験をしているわけだ。
私たちが”常識”と思っていることは実はcontroversialであるべきことがたまにある。
例えば、日本の医療の世界では、先人たちの長年の経験に基づいた医療が一部で行われている。
例えば、擦り傷などの外傷の治療もそうだ。
まだ日本人の中には、擦り傷は乾かして治さないといけないと考えている人がいるかもしれないし、医師の中にはイソジンを塗りたくってその後、ガーゼを当てて傷をカピカピにして満足している人もまだいるだろう。
これは長年の日本の外傷治療の常識であった。
私も医師になったときは先輩からこの治療を教え込まれ、それに従っていた。
しかし、数年前(7,8年前)、この行為に疑問を持つこととなりいろいろ調べたり、自分で自分の怪我を別の方法で治療してみてこのイソジンとガーゼの治療が大間違いであったことに気がついたのだった。
このイソジン・ガーゼ事件をきっかけに、今、自分が常識だと思ってやっていることが本当に正しいのか常に疑問を持つようにしている。
常識が実は正しくは無かったと言う事は、結構いろんな世界で起きている。
たとえば、ロードレース。
ランス・アームストロングの出現までは、急な上り坂は重たいギアでゆっくりと足を回して登ったほうがよいとみな信じていた。
しかし、ランスが急な上り坂を、非常に軽いギアで、足をくるくると高速回転させてライバルたちを置き去りにする。
このランスの出現以来、ロードレース界におけるペダリングに対する考え方が大きく変わったのだった。
とかく年寄りというのは、自分の経験に基づいて物事を判断する。もちろんそれ自体は悪いことではない。
でも、その自分の経験が実はただの勘違いであったということがあることを知っておくべきだろう。
先ほど書いた、傷の治療の件でもそうだ。古い医師は、”傷にイソジンを塗ってガーゼを当てたら治った、今までずーっとこの方法で治療してきて治っているから、傷にはイソジンを塗ってガーゼを当てて治さないといけない”、なんていう人がいるかもしれない。
こんな話を聞くと、ちょっとひねくれた私はこう思う。
”そうですか・・・・・、貴方はこれまで何十年も患者を無意味に苦しませてきたんですね・・・・” って。
かなり昔の話になる。
私が小学生だった頃の話だ。
ある教師の教え方が非常にまずく、同級生一同、理解に苦しみ混乱していた。
ある日、同級生が私のところに休憩時間にやってきてこう尋ねる。
”あの授業が全く理解できなかったんだけど、教えてもらっても良いかな?”
それ以来、その先生の授業が終わると、同級生数人と授業内容に関して話し合い、そしてお互いよく理解し満足していた。そして、どのように教えるべきかを同級生たちと話し合っていた。
一方で、その教師の授業は相変わらずちんぷんかんぷん。同級生と私は、”どうしてあそこをあんなふうに説明するかな?” と再び、休憩時間に話し合う。
そして、ある日、同級生と意を決してその教師にこう言った。
”先生の教え方は、私たちが理解できるものではありません。たとえばあそこはこういう風に説明したほうがいいと思います。”
すると、その教師は顔を真っ赤にして大きな声でこう言った。
”私がいったい何年間教師をしていると思っているんだ!!!”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・、私と同級生は全員沈黙・・・・。
そして、その教師を説得することは早々にあきらめ同級生と再び話し合ったのだが、その時浮かんだ疑問はこうだった。
”あの先生は、いったい何人の生徒の学校生活を無駄なものにしてきたんだろうね?”
私も、その教師の年代に徐々に近づいている。
あの少年時代に抱いた疑問を大切にして、年をとっていこうと思う。
まだ、まだ、若いと思っているけどね。