家族と健康について考える

 12月19日、ミネソタ快晴

 今日は朝から快晴。アパートの庭でソリ遊びを楽しむ親子がいた。

 外気温は華氏17度。雪遊びをしても服がぬれることは無いので快適だ。


 三女も今日は発熱と鼻汁はほぼ治まり、あとはのどと気管の炎症が自然治癒するのを待つのみ。そして、お昼からは固形物の摂取も自分でするようになり、いつもの食いしん坊に戻りつつある。

 さて、家庭と健康、医療について考えてみようと思う。それと、教育についても。

 先日の記事にも書いたけれど、私は娘たちに診断と治療に関する基本的なことを今から教育している。その基本は観察である。

 皆さんはEBMと言う言葉をお聞きになったことがあるのではないだろうか。


 これは医療の世界では非常に重要な考えで、wikiから引用するとこうなる。

 治療効果・副作用・予後の臨床結果に基づき医療を行うというもので、専門誌や学会で公表された過去の臨床結果や論文などを広く検索し、時には新たに臨床研究を行うことにより、なるべく客観的な疫学的観察や統計学による治療結果の比較に根拠を求めながら、患者とも共に方針を決めることを心がける。

 このEBMもその基本は観察である。その観察から得られた情報を統計学的に解析して得られたevidenceを基に医療を行うわけである。

 これはなにも小難しいことではない。

 例えば、やけどや擦り傷などの外傷や、風邪、感染性胃腸炎等の一般的な病気に自分自身や家族がなったときに、娘たちにはよく観察してその症状や経過を理解し記憶しておくようにと教育している。

 これから彼女たちが大きくなっていくにしたがって、なんどもそれらの怪我や病気を生活の中で見たり経験したりするだろう、そしてその貴重な経験の積み重ねが徐々に強力なevidenceとなり、自らEBMを実践できるようになるわけだ。もちろん統計学的に分析するわけではないので時にはもろいevidenceにはなってしまうが。

 なによりも私が言いたいのは、怪我や病気をしたときに、その貴重な経験をただ、医師などの医療関係者にあげてしまうのではなくて、自ら観察し考察したほうが人生が豊かになるってこと。

 今の日本は、どちらかというと自己責任を回避し、他人にその責任を委ねるような社会になっている。

 その結果、生活力が低下し、地域社会、コミュニティーの機能が低下してしまっている。

 国民皆保険制度が導入される以前は、診療所や病院の敷居が今よりも高かった。これはaccessibilityが低かったと言い換えられる。この頃は、家庭で何とか怪我や病気に対応しようという気持ちが遥かに強かった。現代で言えば、アメリカの状態と同じだ。

 その気持ちが、家庭での教育、先達からの教育において非常に重要であった。その地域社会や家庭内の年配者たちが、豊富な経験をもとに得た知識を若い人たちに与えることで、その質を保ってきたわけだ。これはなにも高度で難解なことではない。必要なのは心がけと覚悟だろう。そして、惻隠の情か。医療従事者を中心とせずに、住民や家族の間での惻隠の情が豊かだった時代だ。

 今は、核家族化が究極に進み、世代を超えて経験や知識が語り継がれる期会も減り。病院や診療所もコンビニと化し、自ら人間として授けられた能力を生かすことなく生活している。


 ただ、現代の日本人がその能力を完全に失っているわけではないことを私は知っている。

 日本で働いていた頃、擦り傷や切り傷、やけど等の治療について看護師や、非医療従事者向けに講演をしたことが何度かあった。

 その内容はこれでもかというほど細かい。皮膚の構造、擦り傷や切り傷、やけどによって損傷した皮膚の状態。そして、その損傷から回復するために重要な細胞、そして傷から分泌される皮膚の回復に必要な物質など。そう、細胞レベルでの話から始まり、その細胞が分裂再生するために必要な環境とその環境をどうやって作るかを講演していた。

 時には1時間、長いときで2時間ぐらい講演は続いた。それでも、参加してくれていた方々の表情は終始、真剣でどこか満足感さえたたえていたように思う。そして、講演の最後の質疑応答では質問が次々と発せられたのだった。

 日本人の知識、教養レベルは世界的に見ても非常に高い。そして、少々小難しかった私の話にも真剣に耳を傾けてくれたのだった。それと、その時感じたのが、非医療従事者でも治療に関して非常に強い関心を持ち、自分たちで出来ることはなんなのかを常に考えてくれていたことだった。そう、私の講演会に集まってくださった方々は非常に教養の豊かな人たちだった。


 今、日本の医療はすでに崩壊している。夜間に押しかける大量の患者、夜間救急診療をすればするほど赤字になるような診療報酬。なんで、市立や町立などの公立病院が経営破綻、大赤字で苦しんでいるかを今一度考え直して欲しい。私立病院であれば、救急や小児科などの不採算部門に力を入れない、もしくは閉鎖してしまうことも出来るが公立病院は地域へ医療を提供する義務を負っているため、たとえそれが不採算でも閉鎖することはなかなか出来ない。そして、過労状態の勤務を続けているのに、地域からは赤字病院のレッテルを貼られお荷物扱いされてしまう・・・・・・・。あまりにも、むなしいではないか。

 さて、話がそれてしまった。

 病気や怪我、治療は何でもかんでも医者に任せる必要はない。親を持ち、配偶者を持ち、子を持ち。その長い人生の中で、病気や怪我なんてのはしょっちゅうあることで、その度に得られる経験を大切にして自分の生活の糧にして欲しい。そう、家庭や地域自らEBMを実践することが可能なのだから。

 その経験を豊かなものにするために大切なのは、観察と考察、そして覚悟である。

 今まさに、私はアメリカでそれを実践している。日本だったらすぐに勤務先の小児科にでもかかっていたであろう病状でも自己責任で親として治療に当たっている。とはいっても、今回の三女にしたことは、解熱剤の使用だけで、あとは抱っこしたりミルクを飲ませたりオムツを替えたりといった非常に簡単なことである。あ、それと一番重要なこと、それは愛情と祈り。

 正直に言って、怖くなるときもある。それでも、人間の免疫力、自然治癒能力を過小評価してはいけない。私たち人間に備わった、これらの能力はまさに神秘の力なのであるから。

 それと、再度、教育。これは人間の得た最も重要な機能のひとつである。私は子供たちに常に自分で考えることを勧めている。どんなときもだ。そして、例えば、感染性胃腸炎のときでも経口摂取がその回復に重要であることを小さな頃から、その理由を含めて詳細を言い聞かせているため、げーげーと吐き続けながらも次女は自らお茶を飲み、ジュースを飲もうとがんばれるのだ。その姿を見ていると、点滴をしてあげられたらもっとすぐに楽にしてあげられるのにと辛い気持ちにもなるが、自分で苦しみを乗り越えようと飲み続ける小さな背中を見ているとこちらも勇気づけられるのだった。

 この文章ではあえて”ヒト”と書かず、”人間”と書いたのだが、その意が御理解いただけただろうか。