大和、そして戦後シンドローム

 8月13日、晴れ、曇り、豪雨、雷

 先日、BS103で放送されていた ”巨大戦艦 大和 ―乗組員たちが見つめた生と死―” を数日に分けてみていた。




 家の誉れ 村の誉れ
 ”私、竹田三郎は、徴兵適齢にあたり幸福にも生来健全なる体格を持ちて合格し、鳥取歩兵第40連隊に入営することとなりました。名誉ある兵員の一員となります以上は、兵員たるものの責任は十分に全ういたしまして、決して皆様の不名誉となるようなことはいたしませんと覚悟いたしております。”


 大和にて戦死した海軍士官(川崎勝己)の妻、当時25歳のせつこさん。再婚のすすめを断り、仕事をしながら二人の娘を育て上げた。
 ”(夫は)優しかったですよ 何にせよ。今の方だったら、道のある限り逃げるんでしょうね。戦争嫌いで。それこそ。”

 昭和20年4月6日、午後3時20分。海上特攻作戦を命じられた大和は沖縄に向け出撃しました。

 神機 将ニ動カントス
 皇国ノ隆替懸リテ
 此ノ一挙ニ存ス
 各員奮戦敢闘 全敵ヲ必滅シ
 以テ
 海上特攻隊ノ 本領ヲ発揮セヨ

 出撃する大和を見送る女学生がうたう。

 我が大君に 召されたる
 生命光栄ある 朝ぼらけ
 讃えて送る 一億の
 歓呼は高く天を衝く
 いざゆけ
 つわもの
 日本男児

 総員、死に方、用意



 気がついてもらえたか?

 かつての日本人が持っていたもの、今の愚民が持ち合わせていないものが何か。



 この仕事をしていると、生保(生活保護、せいほ、なまほ)の患者の手術をすることが多々ある。

 数ヶ月の出来事。

 中年の患者、生保。戦後世代。とある癌の手術を我々が行い、当然経過良好。何の問題も無く術後を経過。

 “先生、はよ帰らして。これ(お金)がかかんねん。見舞いに来た子供達にこれ(お金)を渡さなあかんやろ。これで晩ご飯でもたべやーって。入院してても退屈やし。”

 “病院の食事。おいしく無いわ。食べられへん。もっとましなもん出されへんの? あんなん食べられへん。”

 “え?、おいしいもん食べたいやん。お肉とか、甘いもんとか。家におったら好きなもん食べられたのに、入院してから食べられへん。”

 “それに隣のベッドのばあさん、うるさくて眠られへんわ。どうにかならへんの。”


 その中年の患者の子供達は、一般企業で普通に仕事をすることが出来ている。しかし、その母親、父親は生保。そして、我々の血税を持ってして給付された生活保護費が息子や娘の小遣いとなる・・・。

 そして、家にいたら好き放題食べているこの患者。癌なのに生保なのに肥満、高血圧、高脂血症2型糖尿病である。この患者の治療、治療薬、すべて我々労働者の血税によって全額補助されているのだ。

 なんでやねん!!!!!


 こんな生保の患者は決してまれではない。

 外来に通院中の患者、生保。大抵、肥満・・・。“生活習慣病”の治療を当院で受けている。

 なんでやねん!!!!!


 しかも、何の恥じらいも無く。ためらいも無く。言いたい放題。

 まさに非国民。

 これが今の腐りきった日本の社会保障制度が現代の愚民達にもたらした堕落である。

 このような愚民は当然のように、大東亜戦争の記憶・知識を持つことは無い・・・。

 誇り、誉れ、名誉、尊厳。

 命、死、国家、国民。

 そんなことを考えることも無く、自分さえ良ければそれで良い。

 我欲によって満たされたその心。国の存亡に関わる事態であるとは決して理解出来ない。

 そう、自分や自分の家族さえ良ければそれで良い。

 国家? そんなもんどうでもよろしいが。

 国家を欺いても、生活保護費を得て、のんびりとえらそうに暮らせたらよろしいが。

 え?

 だって、あんたがたが給付しているんでしょ。何か問題があるの?



 再び、BS103の放送。

 大和が沈没し、八杉さんが、海に投げ出された時のことでした。

 “溺れてもう泳げない訳ですよ。その時に思わず、助けてくれーっと言ったんです。言った瞬間にしまったーっと思いました。言うべきじゃないじゃないですかそんなこと。そんなこともし(上官が)聞いたら、なんだそのざま!黙って死ね!と言われたらそれまででしょ。しまったーっと思ったおりに、こちらの方向に高射長(川崎勝己さん)がいらっしゃいました。カイゼル髭はもうオットセイですよ。重油で、もう重油だらけです。”おう、よう、落ち着け” 泳ぎながら(艦の破片の)円材をこっちへ持ってきて下さったわけです。その時におっしゃった言葉、”そうら、これを持つんだぞ。いいか、はい持て。お前は若いんだからな、頑張って生きるんだぞ” 高射長はこうおっしゃいました。 高射長! 高射長は目の前で持っていた円材を置いたまんま、大和が沈んだ方向に持って波濤の彼方に泳ぎ去った。泳ぎさっていかれました。その時に、わたくしは言いました。”高射長! 高射長!” と。あんな声を出したことが無い。お前は生きろと言った高射長が目の前で死んでいくんですよ。”



 そして、今日。

 手術の合間に少し時間があったので入院中の90歳のご老人のベッドの横に腰をかけ、そのご老人に話を聞いた。


私 “終戦のとき、おいくつでした”

ご老人 “21やったか、22やったかの。嫁いで神戸で暮らしてたわ。”

私 “どうでした。当時は。”

ご老人 “空襲がの、きれいやったー。ぱーっと光が沢山落ちて来た。そりゃもう、きれいかったわ”

私 “奇麗って・・・。爆弾ですよ。逃げなかったんですか?”

ご老人 “そんなことゆうたかて、どっこにも逃げるとなんかあらしません。”

私 “・・・・・・・・・・・・。それからいかがでした。敗戦してから。”

ご老人 “そりゃ大変やったな。食べるもんも無い、物を買うところも無い。なーんにも食べるもんも無くて、物を持っていって食べるもんに換えてもろてな。そりゃあ、ひもじかった。今の人には分からんわな。”

私 ”御兄弟はどうされていましたか?”

ご老人 ”兄さんは戦争で死んだ。もう独りの兄さんも戦争で怪我して帰って来た。傷病軍人ってやつやな。でも、そのまま死んだ。同級生もぎょうさん死んだ。空襲でな。”

ご老人 “先生、話を聞いてくれておおきに。もうな、死んでもええ。もう、十分生きた。人様にご迷惑をかけんように精一杯生きて来た。もう、人様にご迷惑をかけんように死んでいけたらそれで十分や。ほんま、おおきに。こんな話を出来たのは初めてや。父から言われとった。人様に迷惑をかけたらあかん。前ばっかり向いていきとったらあかん。前を見て、後ろを見て、右を見て、左を見て。広い範囲をみてようよう考えて生きていかなあかんってな。”





 ぜひ読んでください。

 そして、目を覚ましてください。