日本の医療を憂う その2

 12月29日

 今日は私と三女は自宅でお留守番。妻と長女、次女は友人宅にお邪魔させていただいていた。

 さて、昨日読めなかった高知新聞の”医師が危ない”の続きを読もう。


 うーん、そうか、そういうことか。

 高知医療センターだけでなく、それ以外の病院にも密着取材を行い、さまざまな人物にインタビューを行い、それを極力客観的立場で記載し、さらに自らの主張、提案も書いてあった。

 長期間の密着取材を許可した高知新聞もすごいが、この記者(掛水雅彦さん?)もすごいと思った。

 日本にもジャーナリズムが存在したか・・・・・・、と驚かされた。


 この高知新聞の連載後、高知医療センターはどのように変化したのだろう。その近況を私は全く知らないので、どうなったか興味があるが。推測するに、あんまり変わってないんだろうなって思う。それはなぜかと言うと、この激務の状況は結局のところその病院で勤務する年配医師たちが生み出したもので、その激務に魅力を感じる人がその激務をこなしているわけで、そうでなければもっと早い段階で崩壊しているはずだから。

 世の中にはいろんな患者がいれば、いろんな医師がいる。

 私も週に100時間オーバーの勤務、月の時間外労働が200時間オーバーで働いていた頃は、その激務が自分の能力を高めそして自分の将来を明るいものにしてくれると信じていたし、実際のところその激務をこなしていた数年間は今でもとっても貴重な時期だったと思っている。

 ただ、忘れてはならないと思うのが、家族の存在である。

 その数年間、私も結婚し子供たちが生まれと私生活が充実していたはずの時期だった。

 しかし、長女が起きる前に出勤し、帰宅は決まって日が変わってから。当然、当直やら夜間の緊急手術で数日間家に帰らなかったことも良くあった。自宅での夜間は長女の夜鳴きで起こされるのがとても辛かったので、私だけ別の部屋に寝ていた・・・・・。休日も休日ではなく、常に携帯電話がなるのではないかと言う緊張感を持ち続けていたし、その緊張感に耐え切れぬときは休日も一日中、病棟にいた・・・・・・。

 平日、妻と話をするのは深夜の数十分間。午前1時や2時、3時の話だ。それでも晩御飯を作って待っていてくれた妻には感謝の気持ちと申し訳ないという気持ちの両方を持っていた。


 そんなわけで、私は長女の幼少期のことを良く知らない。

 事実上、母子家庭であった。

 休日に起きている長女に会っても、私を見てお父さんとは認識出来ていないんだろうな・・・・・、と悲しい気持ちになったこともあった。

 芸のためなら女房も泣かすーー、なんて歌があったな・・・、と当時は言い訳がましく思いつつ、どこかにその状況に対する免罪符を探していた。

 こんな状況でも、私の激務を受け入れ、一人ぽっちで家庭を守り、娘たちを育ててくれた妻に改めて感謝を言いたい。

 そして、当時、私はそれが外科医として当然の人生だと思っていたのも事実である。


 さて、あと数ヵ月後には帰国し、外科医としての人生を再会するわけである。今のところ2年前とちっとも日本の医療の状況は変わっていないようで、少なからぬ不安を覚える。しかし、私も自分の技術をさらに磨きつつ、後輩外科医の教育にも当たるわけでそこに今後の日本の医療界をすこしでも改善できるチャンスがあるのではないかと思っている。

 私の持てる技術の全てを若い外科医たちに提供し教育し、激務の中でもよりよい研修環境を提供できたらと思っている。

 今、日本では外科医を志す若い医師が激減し、外科医の数が減少傾向にある。しかし、外科医を志す若い医師が皆無になったわけではない・・・・、はず・・・・・・・。その医師たちに少しでも良い環境を提供できるように努めて行きたいと思う。

 外科医の育成にはそれこそ、何年もかかる。そして未だにそれはいばらの道である。

 後輩諸君はせめて私のように家庭をすべて犠牲にした生活を送るのではなく、仕事と家庭の双方を大切に出来るような生活を送って欲しいと思う。この思いは、アメリカに来てさらに強くなった。

 しかし、今のところ日本で働く医師たちは膨大な時間外労働をしなければならない。そう、しなければ今の日本の医療は成立しないのだ。日本政府の馬鹿野郎ども!!!厚生労働省のくそったれ!!!と言いたいね。

 この現状をぜひ日本国民全てにご理解頂き、そしてその現状は異常であることを分かって欲しい。

 そして、いつの日か日本の外科医でも育児休暇が当然のように取れる時代が来ることを祈っている。

 なあ、かあさん、育児休暇っていいもんだよね! え、”私はあなたの母親ではありません!”って?????

 ごめん、この年になって娘が三人いるとね、君の事をついつい”おかあさん”って言ってしまうんだよ。