今改めて、人生、そして外科医としての人生を振り返る。 Episode 1.
9月23日、曇りのち秋晴れ
気持ちがいい。
清々しい夜明け。
数週間前の休日の出来事。
私は外科当直だった。
午後4時30分に病院に入院・・・、じゃなくて出勤。
救急外来は患者で溢れ、内科日直の新進気鋭の若手内科医Mが獅子奮迅の働きを見せていた。
彼はとても優秀で、私にも手術が必要な癌などの患者を紹介してくれている。
”良くこんなのを見つけたな!!! すごいな!!!” ”今日、君から紹介してもらった患者の手術をしたけど、君の診断通りだったよ!!!” とその診断能力の高さに驚かされる事が何度もあるような優秀な若き内科医だ。
さて、午後5時になり当直業務が始まり、数人の外科的処置が必要な患者の診療をして、午後9時頃に医局(オフィス)に戻る。
ありゃ??? M君がまだ働いている・・・。
私 ”M先生、日直だったんだろ・・・。なんでまだ働いているんだ???”
M ”ええ、日直を終わって、入院患者の回診や処置を済ませて、今カルテを書いているんです。”
私 ”カルテを書いているって、誰のだよ。”
M ”今日、救急外来で診察した患者のカルテです。あまりにも患者が多くて、カルテを書いていたら間に合わなくて患者を待たせてしまうので、カルテを書かずに診察や処置を続けて、今それをまとめて全部書いているんです。”
私 ”・・・、なんてことをしてるんだ・・・。今日、日直で君が診た患者って確か50人を超えていたよな・・・。”
M ”ええ、そうです。救急車も10台ぐらい来ましたよ。それを全部、効率的に対応するにはこれしかないんですよ。”
私は絶句した。
カルテを書く間もなく、診療を続けそして疲れきった体でその書く事が出来なかったカルテを夜になって書いている。
50人の患者を診察したって事も驚きだが、そのすべてに的確な診断と処置を行い、そしてそのすべてを記憶し、カルテを記載している!!!
ご存知の通り、日本の医者の世界は、シフト制ではなく、主治医制である。
日勤帯で多数の患者を診察して、入院させて、午後5時になったらさようならって感じのアメリカみたいな働き方は出来ない。
日勤帯で死ぬほど働き、多数の入院患者を抱えたら、そのまま夜になっても家に帰る事はなく、入院した患者の診療を続けるのだ!!!
こんな日本の医師達に栄光あれ!!!
さて、タイトルの件。
最近、自分の人生を振り返る事がある。
生まれてから、両親の愛に恵まれ、大切にそして厳しく育てられた。
”嘘つきは泥棒の始まりだ”
”名に恥じぬ生き方をせよ”
”人様に迷惑をかけるような事はするな”
”ご先祖様に感謝して、今を生きよ”
そんな様々な思想を父や母から教えられ育った。
そして、自ら外科医を志し、医学部に入った。
在学中は部活に明け暮れ、怪我も絶えぬ。
そして、医学部を卒業し、外科の医局に入局し外科医の門をくぐった。
まずは大学病院での研修。
大学病院には猛者が棲む。
特に、私が所属した肝胆膵外科には、私が未だに到達出来ぬような領域に棲む外科医が沢山いた。
当時の私の師匠、今、教授になっている御仁(第一の師匠)がいる。
当時、彼の手術の第二助手を務めていた。
研修医の私の技能は素人と何ら変わりなく、迷惑をかけっぱなし。
私も自分のふがいなさに、落ち込む日々だった。
そしてある日、その師匠に、手術が終わった後、手術場の医師控え室で思わず土下座してこう言った。
私 ”先生! 申し訳ありません! 不甲斐ない働きしかできず。申し訳ありません!”
師匠 ”なに。気にする事はない。君には期待しているよ。これからもよろしくな。”
それからも、大先輩方に追いつく為に、糸を結ぶ練習、解剖の勉強等を昼夜を問わず続けた。
そして、関連病院(市中病院)に出向する事となった。
当時は、外科研修医が10人ほどいたので、各人が行きたい病院を紙に書いて医局長に提出する文化があった。
ドMの私は、当時、最も厳しく夜逃げした研修医もいるような関連病院を第一候補にした。
幸か不幸か、その病院に出向させていただく事が出来た。
そして、予想通り、いや、想像を絶するような激務が始まった。
終始、担当入院患者は20人以上。
朝から晩まで、手術。
手術が終わってから深夜に、指導医とPTCDを入れる、ERCPをするなんて事も良くあった。
帰宅は日が変わってから、4時間ほど寝て、朝は6時過ぎに起きて出勤する。
最初の1年間は、執刀医をさせていただく事もなく、ひたすら第2助手もしくは第1助手をさせていただき、ぼろくそに怒られ続けた。
私をさんざん叱りつけたのは当時の外科部長。今はもっと偉くなっておられる。
彼は私が尊敬し、今でも慕う御仁(第二の師匠)である。
まさに手術の鬼。未だに夢で彼の手術を見る事がある。
今の時代、あり得ないほど厳しくご指導いただいた。
一瞬でも手術についていけないようならば、糸結びで糸を手から1回でも落とそうものなら、”手をおろせ!!! 手術室から出て行け!!! いったい、何度、私の手術に君は入って来たんだ!!! でていけ!!!”
あれほどぼろくそに言われたのは、我が人生で初めてかもしれんなと思うほどだった。
もちろん、彼は私だけでなく、他の医師にも上記のごとく厳しく指導していた。
そして、術後管理を巡って、討論(言い争い)を看護師詰め所でした事もあった。
私 ”そんな、後だしじゃんけんとしか思えぬようなことをおっしゃられても困ります!” と言ったことを記憶している。
そんなこんなで反発する事もあったが、彼の手術に惚れ込んでしまった私は、歯を食いしばって働き、その結果、彼のもとでの研修が1年経ち、執刀医を多数任せていただけるようになった。そして、相も変わらず、厳しい指導が続いたが、任せていただける手術はどんどん増えていった。
そして、2年が経った。
ある日、私のもとに大学の医局長から他の病院へ異動せよとの命令が電話にてもたらされた。
そして、その事は、第二の師匠の耳にも当然届いた。
そして、師匠は私を呼び出しこう言った。
”君がこのまま、この病院にいたいなら、その旨、(大学の)医局に言えば良い。私も応援する。君の希望に反しての異動は許可されない。”
このありがたいご提案に反して、私は医局の指示に従い異動を決めたのだった。
この師匠のもとにいたら、もっとご指導いただき、自分を磨ける!
しかし、私は医局の指示に従い、新天地で自分を試そう。
そう思ったのだった。
ああ、懐かしい。
まだ、あの頃は若かった。
To be continued.